“食べる”は英語だと全部”Eat”|留学して実感した日本語の奥深さ

シンガポール留学

英語では表現できないことが、多すぎる

数ヶ月日本から離れ、外国語で生活してきた今、改めて日本語の奥深さを実感している。

というのは、英語では表現できないことが多すぎるのだ。

もちろん、私の英語力も関係しているだろう。しかし、それだけではないと思う。

“食べる”だけで、これだけの表現がある

例えば、「食べる」という動詞で考えてみてほしい。

  • 食べて
  • 食べてよ
  • 食べてね
  • 食べな
  • 食べなよ
  • 食べれば
  • 食べたら
  • 食べなって
  • 食べちゃえ
  • 食べちゃいな
  • 食べちゃえよ
  • 食べちゃってよ
  • 食べちゃいなよ
  • 食べちゃってね
  • 食べろ
  • 食べろや
  • 食べろって
  • 食べんかい
  • 食え

これらの表現を英語に翻訳すると、すべて「Eat」になってしまう。

日本語に比べて語彙の少ない英語では、語尾の些細なニュアンスの違いを表現できないのだ。もう少し語句を足せば、それなりの差異は出せるかもしれない。それでも、言い方や声のトーンによる印象づけに、大部分を頼らなければならない。

(だから英語は抑揚が激しく、日本語は比較的平坦なのだろうか。)

中国語でも、日本語には及ばない

これは中国語でも同じことが言える。

中国語で「食べて」は「吃」、「食べなよ」は「吃吧」。ほかにも「吃吃」「吃一吃」「吃啦」「吃勒」など、英語よりは表現の幅が広がる。

しかし、それでも日本語には遠く及ばない。

そしてこれは、動詞に限った話ではない。文章の構成は論理的に組み立てられても、一つ一つのニュアンスを表現しようとしたとき、的確な言葉が見つからない——いや、そもそも存在しないことがある。

ネイティブ級の友達も、日本語を話して喜んでいた

NUS(シンガポール国立大学)に交換留学中の、早稲田の友達も同じことを言っていた。

彼女はインターナショナルスクールに通っていたため、日本人でありながらTOEFL110点以上という、ネイティブ越えの英語力を持っている。

そんな彼女が、久しぶりに日本人である私と会って日本語で話したとき、こう言って喜んでいた。「日本語って、こんなにも論理的に、思いのままに表現できる言語だったのか」と。

ネイティブ級に英語ができる人でさえそう感じるのだから、日本語の語彙が英語に比べて豊かなのは、間違いないのだろう。

表現の幅が狭いことには、メリットもある

一方で、表現の幅が狭いことには、メリットもある。言語として学びやすい、ということだ。

英語にも、スラングや特別な意味を含む語句はある。だが、それらは覚えてしまえばいい。自分で組み合わせて応用させる必要はない。

対して日本語は、語尾のニュアンス、助詞の使い方、敬語など、いくら教科書で学んでもネイティブと同じレベルにはなれない奥深さがある。

中国語も、基本的に文法は簡単だが、ネイティブの感覚を掴むのは難しい。何より発音が難しく、幼少期から学んでいなければ、ネイティブ並みの発音を習得するのはほぼ不可能だろう。

一番簡単なはずの英語が、一番話せない

ところで、世界の公用語として英語が選ばれている理由の一つに、この習得難易度の低さは確実に関係しているはずだ。

逆に言えば、日本語は言語の中でも随一の習得難易度だということになる。個人的には、中国語よりも難しいと思う。

奥深く、習得が難しい日本語が母国語で良かったと、心から思う。

——それと同時に、一番学ぶのが簡単なはずの英語が、一番話せない。この現状に、もどかしさを感じるのだ。

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